片岡嶋之亟、私の生い立ち 第1回



 <生誕の地、間人のこと>

 生まれたのは京都府の北端、丹後の間人(たいざ、と読みます)という小さな港町で父の両親、つまり私の祖父母が営む「如月(きさらぎ)」という旅館です。しかし育ったのはそこではなく、当時住んでいたのは京都市内で、二才頃までは右京区の円町(えんまち)というところ、それから同じ右京区の竜安寺に移り、小学校の3年生までそこで暮らしました。初孫の私は祖父母に非常に可愛がられ、幼児期のかなりの時間を、丹後の間人で過ごしたようです。両親とも教師をしていて学期末の忙しい時期などには、父母の弟、妹、つまり私の叔父、叔母に交互に付き添ってもらって、頻繁に間人と京都の間を往復していたようです。父も母も兄弟姉妹が多く、父の弟が四人、妹が一人、母の弟が二人、妹が二人。九人の叔父、叔母にとって私は始めての甥であるため、「基ちゃん、基ちゃん」と随分可愛がってもらいました。
 そして右京区の御室小学校に通うようになってからも、夏休み、冬休み、春休みは、ほとんど最初から最後まで、間人の祖父母の家で過ごしていました。水の美しい間人の海で夏を過ごすことは、子供にとってこの上もなく楽しいことでした。後が浜(のちがはま)、長浜と並ぶ、間人の海水浴場の一つに、城島(しろしま)というところがありましたが、狭い入り江の波打ち際が小さな貝だけで出来ている、とても美しい浜辺で、子どもたちは泳ぎに飽きると、小さな貝殻を集めて遊んでいました。この城島は古くは浮嶋(うきしま)と呼ばれ、日本海を航行する船の格好の目印とされていたそうです。



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