片岡嶋之亟、私の生い立ち 第12回



 <竜安寺の人々>

 私は小さかった頃から、とにかく好奇心が強くて、よく遊ぶ子供でした。とても人懐っこくて、誰とでもすぐに仲良くなったのじゃないかと思います。そして大人同士なら限られた範囲のお付き合いであっても、子供同士なら友達になれば何処へでも出入りが出来ましたので、いわゆる裏だな住まいという生活をも目の当たりにすることも出来ました。竜安寺の私の住んでいた家は、京都独特の作りで間口が狭く、奥行きの深い、うなぎの寝床といわれるような構造でした。入り口から細長い土間が続き、一番奥に「おくどさん」と呼ばれる竈がありました。裏には猫の額のような小さな庭があり、篠竹がはえている奥に板塀が有り、塀の向こうは裏のアパートの水汲み場。水道の蛇口のいくつか並んだ流しは、夕方になると食事の支度をする若い主婦たちでいっぱいになり、賑やかな声が聞こえてきました。裏は接していても、入り口は随分離れたところにあり、両親はそこの住人たちとほとんど交流がなかったようですが、私は他の場所の子供たちに対すると同様、すぐに友達になり、アパートの六畳一間に上がりこんで遊んだこともありました。しかし子供の遊びはもっぱら屋外中心で、アパートの玄関でメンコや蝋石(石やコンクリートに擦りつけると白い線が書ける石で、チョークのようなものでした。落書き、陣取りやいろいろな遊びに使いました。)を使って連日のように遊んでいたのを思い出します。
 メンコは大きな缶に入れて宝物のように大切にしていました。元は近所の駄菓子屋に売っているものを買ってくるのですが、子供たちで勝負をして、とったりとられたりしていました。並んでいる上から自分のメンコを叩きつけて、その風で相手のメンコがめくれると貰えるのです。チャンバラ映画のヒーローのメンコは人気があり、大事なメンコには蝋を塗って、ひっくり返らないように細工していました。分厚く大きなメンコは元の値段も高く、取られると悔しいものでした。面白いのはとても薄くて風を受けてひっくり返っても、もう一回転して元に戻る、忍者のように身軽なメンコで、結構子供たちに人気がありました。
 隣の石田さんの家とは壁を挟んで繋がっていて、家族ぐるみのお付き合いでした。子供は四人。ご主人の小父さんは映写技師で、僻目で寡黙な人でしたが、映画館の招待券や上映の終った映画のスチール写真をたまにくださるので心待ちにしていました。赤胴鈴之助の写真などは貴重な宝物でした。石田さんの奥さんはでっぷりと太った、人のいい小母さんで、家で闇米屋を営んでいました。今では前世紀の遺物のような職業名ですが、戦後十年程しか経っていない時期で、配給米や米穀通帳というものが有った時代の名残なのでしょう。よその子も自分の子も分け隔てなく可愛がり叱るという、当時の自然なスタイルそのままに、「基ちゃん、基ちゃん」と私にも接して下さっていて、それは家族の一員という感じでした。子供には優しかったですが、怒ると本当に恐い肝っ玉母さんという感じで、夫婦喧嘩が始まった時などは、その気配はすぐに壁越しで我が家へ伝わってきました。大声に続いて何やら物のぶつかる音、お茶碗の割れる音がして、子供たちの泣き声が一斉に聞こえてくると、暫くの後に彼らは列をなして我が家へ非難してきました。程なく決着がつくと、鼻をすすりながら子供たちは帰っていきましたが、そんなことが何回かあったように記憶しています。どういうふうに決着が着いたのか、子供の私には知る由もなかったのですが、小さな小父さんと大きな小母さんの勝敗の軍配を、心の中でどちらに上げていたかは容易に想像が出来ますでしょう。
 当時は人家の周りにも野原が多く、様々な小動物が沢山いました。私の大嫌いな蛇も多かったのですが、とりわけよく出てきたのがアオダイショウでした。蛇は腹の鱗で前に進むので、天井にいるとジャリジャリと音がしました。ある時、アオダイショウが隣の家の天井から部屋の中に降りて来たので小父さんは青くなっていましたが、小母さんは顔色も変えず、尻尾を掴んで外に放り出し、地面に叩きつけていました。私たちはあまりの凄さに息を詰めて見ていましたが、その感じは映画に出てくる、怪力の豪傑に抱く感想と同じだったのかもしれません。
 石田さんの四人の子供のうち三人は女の子だったので、一つ年上の男の子のよっちゃんと一番よく遊んだと思います。チャンバラゴッコ、忍者ゴッコ、魚とり、メンコ、ビー玉、缶けりなどです。女の子のうち一番上の礼子さんは年がかなり上だったので遊んだ記憶がありませんでしたが、次女のよりちゃんが一つ上、三女のなおちゃんが二つ下と年が近かったので、女の子たちとも割と一緒に遊びました。鬼ごっこ、かごめかごめ、かくれんぼ、缶けり、ビー玉、そしてままごと遊びもしました。先ほどお話した、龍安寺の周りでの遊びにはたいて石田さんの子供たちが一緒だったと思います。
 三女は日舞も習っていて、一度だけ踊りの会を見に行ったことがありました。家の近くを走っていた嵐電(京福電鉄)北野線の竜安寺駅の横に仮設の小屋が拵えられ、そこが踊りの会場でした。細かいところはさっぱり覚えていないのですが、狭い会場にはお客さんが満員で、お化粧をして着物を着た、いつもと違った雰囲気のなおちゃんが舞台の上で真剣に踊っていました。踊りの最後の決まりで、思わず「なおちゃん!」と声を掛けたら、普段とは別人のように固い表情をしていたなおちゃんが、にっこりとしてこちらに眼を流してきたのを思い出します。私が生まれて始めて大向こうを掛けた瞬間。普段は何かというとメソメソと泣いてばかりいるなおちゃんが、その時ばかりは何か神々しい存在に見えました。
 お化粧といえば花祭りの時のお稚児さん行列には不思議な感覚を覚えました。小さな男の子が顔に白粉を塗って紅と位星(?)を付け、着飾っているという、何とも云いがたい不思議な世界でした。そういえば花祭りの日には一年中でこの日だけ、全体を花で飾った花電車という市電が走っていました。隣の男の子と二人、お稚児さんの真似をして椿の花を乗っけて写真を撮ったのもこの日だったのだと思います。そんなことをしたのは、一回きりだったと思うのですが、大人たちがとても喜んでいたのを覚えています。残念ながら写真は紛失してしまいましたが、脳裏に焼きついています。
 向かいの三宅さんには、絵のとても上手な女の子がいて、中原諄一、蕗屋虹児ばりの絵を次々と描いていたのを思い出します。その絵を切り抜いて着せ替え人形を作り、女の子同士で遊んでいるのを横目で眺めながら、上手いものだなと感心していました。今は携帯電話の外側のデザインを、そのときの気分によっていくつも変えられるものがありますが、この着せ替え人形の楽しみに近いように思えます。遊び方は変わっても、その楽しみの本質は時代が変わっても引き継がれているのかもしれません。そういえば一番身近に歌舞伎の引き抜きがありましたね。



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