片岡嶋之亟、私の生い立ち 第11回



 <大西さんのこと>

 竜安寺で暮らしていたとき、住み込みの清(きよ)ちゃんというお手伝いさんがいて、共働きの両親が勤務先の小学校から帰宅するまでの間、食事や私のお世話などをして頂いていたのですが、結婚され、その後は近所の大西さんのお世話になりました。大西さんの方々は小父さん、小母さん、一人娘の幸子(こうこ)さんも皆良い人ばかりで、すっかり馴染んでしまい、私は家族の一員のように溶け込んでいました。そして大西家の前の庭、中の土間、裏の畑は子供にとってこの上もない遊び場でした。裏の畑のはずれにあったクヌギの木は、カブトムシやクワガタ、ブンブン(カナブン)が多く集り、遠くの子供たちも虫を捕りに来るぐらいで、宝物でした。雨の日には家の中でトラという飼い猫と遊んだり、貸し本屋から借りた本を読んだり、土間で竹や木を切って工作をしていました。(そういえば猫のトラが時々「ふご」という藁で編んだ入れ物に入って寝ていたのを思い出します。「ふご」というのはもう今は見かけませんが、ご飯のお櫃(ひつ)を入れて保温するのに使っていました。)表の庭では木々の間に、ガラガラと鳴る、鳴り子の縄を張り巡らせて、忍者ゴッコの場所にしていました。また竹筒の下につけた紐を引っ張ると水や砂が落ちる仕掛けも作っていました。落とし穴を作ったことも有りました。すっぱい夏みかんの実は弓の的にしてしまっていました。裏の畑では卵を産ませるために飼っていた鶏と遊び、モグラモチを見つけると穴を辿りながらモグラを探しました。(残念ながらモグラは捉まりませんでした。)子供にとってはやりたい放題の腕白天国で、今思い返すと何ということをしていたのだろうと冷や汗の出ることばかりですが、大西さんの小母ちゃんはにこにこ笑って自由にさせて下さっていました。めったに子供を叱るということはなかったと思うのですが、にこやかな中にピリッとした信念を感じさせる方で、子供たちはのびのびしながらも、同時にやってはいけないことを、時々は無言の中で感じていたように思います。子供に対するはっきりとしたポリシーを持っておられた方に幼児期にお世話になったことは、本当に有難く感謝しています。立派な梅ノ木の、横に伸びた幹にはブランコをつけて下さり、家の中では雨戸を斜めにして俄仕立ての滑り台を作ってくださったのを覚えています。そうして遊びに夢中になりながら、知らず知らずのうちに自然と深く接する機会ができたのだろうと思います。今の私は日本画を始め、絵が大好きですが、琳派の絵などに出てくる梅の古木の色合い、感触を好む趣味などは、大西さんの家にいたときに身に付いたのだろうなと思っています。
 私がお世話になっていた大西さんを初め、竜安寺の近所の人々は、特別上流というわけでもなく、経済的にもとりわけ豊かというわけでも有りませんでしたが、心根に気高さというか、本音で生きている、気取りのない人間の溌剌とした姿がありました。たとえ学歴が無くても、人生に対する智慧というものがあるのだということを、身を持って知った場所でした。同時に学校では教えてくれない知恵を教わることが出来た土地でした。少年期をその場所で過ごしたことは、様々な人生を演じるという今の仕事をしている私にとって大変幸せだと思います。 (大西さんのおばちゃんは平成14年の夏、亡くなりました。ご冥福をお祈りいたします。)



第10回へ    第12回へ
プロフィールに戻る