片岡嶋之亟、私の生い立ち 第3回



 <加賀屋と銭屋五兵衛のこと>

 時の移ろいと言えば、私の家の何代か前は廻船問屋「加賀屋」として栄えていたそうです。間人は江戸時代には北廻船の出入りする港で、小学校社会科の地図の航路にも出ていましたが、私の家との関連はあまり実感として感じていませんでした。廻船問屋「加賀屋」の隆盛を偲ぶものはほとんど残っていませんが、祖父の家に木の箱に入った、厚さ二十センチほどの帳面があり、船の入港が筆でびっしりと記録されていました。入港、出港の日時、荷主の名前とともに帆の形が描かれ、紋が大きく記されていました。港に入ってくる船が何処の荷主のものか、遠くからでも見分けられるように、帆には紋が大きく染め抜かれていたようです。
 荷主の中には確か紀伊国屋文左衛門の名前もあったような気がします。帳面をめくっていると、加賀の国の豪商、銭屋五兵衛の名前は何度も登場しました。加賀百万石との交易によって「加賀屋」として栄えた江戸時代の先祖は、田舎町としてはそれなりに豪勢な暮らしをしていたようで、大阪の遊郭にまで足を伸ばしていた人物もあったようです。しかしあるとき疫病が流行し持ち船を焼いたため、それによって没落したと聞いていますが、もしその事件がなかったにしても、輸送手段は海上輸送から、鉄道、トラックへと移って行き、加賀屋は時代の流れに逆らうことはできなかっただろうと思います。
 間人は日本海に面した小さな港町でしたが、北廻船の交易によって、遠く浪速や加賀と繋がっていたことは、田舎町の割には文化的にも優れたものを享受する条件が整っていたのではないでしょうか。今は残っていませんが、祖父の家にもかつては若冲の掛け軸や、正宗の名刀があったそうです。加賀百万石は徳川幕府に対する前田家の政策から、文化に財力を注いでいましたので、芸能、工芸の面で江戸時代に飛躍的な発展を遂げ、それは高度に洗練されて現在にも引き継がれています。私の大好きな作家、泉鏡花の作品の数々も、鏡花が加賀の国の出身でなければ随分違った世界になっていたのではないでしょうか。加賀の国は歌舞伎とも大変縁が深く、大名跡、初代の中村歌右衛門丈の出身地も加賀。私は詳しくは存じていませんが、成駒屋の前の屋号は加賀屋だったと伺っています。現在、ご一門の方々の中の加賀屋という屋号はこのことに由来するそうです。
 タイム・トラベルということが出来るのなら、私の先祖の加賀屋さんにあって、加賀の国との繋がりやお芝居のことなどいろいろと聞いてみたい! しかしそれは叶わぬ願いです。もし時間の余裕が出来ればいつか金沢のことも詳しく調べてみたいと思っています。特に私の先祖の記録にはっきりと刻まれた銭屋五兵衛には特別な興味を覚えています。加賀藩の財政を後ろから支えるために、鎖国政策を採っていた江戸時代に朝鮮半島、中国、ロシアはもとよりアメリカとも交易(密貿易)し、遥か南半球のオーストラリアにまで足を伸ばしていたとも憶測されている、途轍もなくスケールの大きな人物。晩年は政治勢力の対立の狭間で冤罪事件に巻き込まれ悲劇の生涯を終えた人物。そのドラマッチックな人生は歌舞伎にも取り上げられ、先代高島屋の旦那や寿美蔵時代の市川寿海さん、先年亡くなった中村芝鶴さん、沢村宗十郎さんほかのご出演で歌舞伎座でも上演されています。先だって「銭屋五兵衛記念館」を訪問いたしました折に、鏑木悠紀夫名誉館長さんが数々の貴重なスチール写真を見せてくださいましたが、胸の高まるのを覚えました。
 この銭屋五兵衛記念館には大阪の芝居の看板絵などがたくさん残されていました。改めてゆっくり見せていただきたいという希望を抱いています。



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