片岡嶋之亟、私の生い立ち 第19回

 <身近だったチャンバラ映画のこと>

 豊かな自然に包まれてのびのびと遊んでいた竜安寺での生活でしたが、私の心の中で大きな場所を占めていたのがチャンバラ映画でした。それほど遠くないところに太秦の撮影所があって、近所には映画関係者もたくさん住んでおられ、また近くの住吉山などではしょっちゅうチャンバラ映画(時代劇)のロケが行なわれていました。また映画の上映会も妙心寺など近くのお寺で時折ありました。「赤胴鈴之助」は妙心寺で見た記憶があります。そして、前にお話した大西さんの小父さんが、自転車の後ろの荷台に乗っけて、西陣や円町の映画館に頻繁に連れて行って下さいました。西陣には後に千本日活と名を変えた昭和館、西陣キネマ、長久座という三つの映画館があったようです。円町の映画館は斜陽化とともにいち早く姿を消し、パチンコ屋かスーパーマーケットに姿を変えてしまったので名前はわかりません。大西さんの小父さんに映画館に連れて行っていただき、頻繁にチャンバラ映画を見ていたのは、両親の帰宅前の時間だったので、私が歌舞伎の世界に入って何年かしてから、家で話が出たときに両親が全く知らなかったと驚いたので、逆に私もびっくりしました。
 隣の石田さんの小父さんの影響も少なくなかったと思います。小父さんは新京極のSY京映という映画館の映写技師で、招待券やスチール写真を頂きました。スチール写真なんて一般には手に入らないものなので、宝物のように思っていたのを覚えています。
 TVというものがまだなかった当時、大人に連れて貰っていた映画館以外でも、野外やお寺など近所でしょっちゅう映画の上映会が開かれていて、ほとんど欠かさず見に行っていました。私のチャンバラ映画好きは、大西さんの小父さん、そして石田さんの小父さんの存在によってさらに拍車がかかったのだと思います。
 チャンバラ映画を見たあとは、大西さんの家の庭や、近くの家の土塀や門のところで真似事をしてよく遊びました。私の家の並びと、向かい側は長屋風の造りで、裏はアパートでしたが、近所には生垣や石垣、土塀に囲まれ、門のある家も少なくなく、チャンバラゴッコをする時にお城やお屋敷に見立てるのには好都合でした。みんな手製の剣や道具を持ち寄り、自分の好きなキャラクターに扮して大満足でした。木の枝を削って作った剣を腰に差し、手製の弓矢を持てば立派なお侍に変身できたのです。
 大西さんの庭の木々には紐が張り巡らされ、忍者屋敷のガラガラや仕掛けが一杯作ってありました。子供の頃の想像力はチャンバラ映画の世界の中で自由に膨らんでいたようです。忍者映画を見た後は白い粉をチリ紙に包んで投げ、煙幕に見立てていました。当てられると服は真っ白になり、親はたまったものではなかったでしょうが、そうでなくても当時の子供は野原を転がったりということを当たり前のようにしていましたので、毎日泥んこになって遊んでいました。服は汚れていても、手製の剣や弓矢を持てば自分ではいっぱしのお侍でした。「チャンチャンバラバラ砂ぼこり」と歌いながら遊んだチャンバラごっこで、自分が扮するのはつい二,三日前に見た映画の主人公でした。「チャンチャンバラバラ砂ぼこり」というのは当時の時代劇映画によく出てきた立ち回りのBGMで、その頃の音楽はたいてい三味線音楽だったように思います。BGMはその後クラシック音楽に変わっていきました。
 若手花形スターが扮していた前髪の若侍は、チャンバラゴッコの主人公の花形でした。中村錦之助さん、里見浩太郎さん、伏見扇太郎さん(後年事件を起こされた時はショックでした)、東千代之介さん、大川橋蔵さん、そして男装して若衆姿となった美空ひばりさんがモデルでした。なかでも東千代之介さんが右脇にまっすぐ立てて構える刀の形が気に入って、竹の棒やハタキを持って真似をしていたことを思い出します。日本舞踊の世界から映画界に入られた東千代之介さんに独特のものを感じていたのかもしれません。



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